こたえはシンプルに、「NO」です。
とはいえ、現代社会で暮らす私たちは、「理解すること」「論理的なこと」「合理的なこと」に取りつかれているみたいに思う。
というのも、私たちの一部でもある「自我/エゴ」は、「知ること」が大・大・大好きだから(笑)
どうして?
いつ?
どうやって?
何が?
etc
けれども、「癒し」が起こることに関して、「理解」は「おまけ」でしかない。
たいていの場合は「理解」していなくても「癒し」は起きるのです。
逆に、分析的な思考は、ヒーリングのプロセスでは逆効果のこともよくあります。
そういう私も、数年前までは「理解」しないとブロックは解けないと信じて疑っていませんでした。
自分に向き合い続ける人間として、ヒーリングプラクティショナーとしての15年の間の経験の中で、今は「理解」は「必須要素」ではないと確信しています。
そんな情報は10年以上前から、私の目の前にちらついていたけれど、「理解」が大切という教育を受け、「理解すること」でブロックが解けていった経験も数多くしてきた私としては、情報として知ってはいても腑に落ちることはなかった。
自分を縛り付けているものから解放されることを、邪魔しているのは「理解フェチ」とでも呼びたくなるような、「知りたい」「理解したい」とう「自我/エゴ」の要求にとらわれている心です。
その「理解したい」要求が満たされないために、あちこちのヒーラーや占い師を梯子して散財し、結局、少しも前に進まない・・・・という方も相当数見てきました。
「どうして、それが自分に起こったんですか?」
「いつからそうなったんですか?」
「これはどういう意味ですか?」
「つまり、それは・・・・・」
まるで、問題の本質からわざと目をそらしているのか・・・?
と疑いたくなるくらいに、本質じゃないことにこだわって・・・・・
もう一度、念を押しておきます。
癒し、ブロックが解けていく、解放されていく、そのプロセスにおいて、
「理解」はオプション、おまけ なのです。
必須ではないのです。
「知って」「理解して」そして「より詳細に・・・・」というのは「自我/エゴ」の自然な機能です。そして分析的な思考にとっては、なくてはならないものでもあります。
何かを知りたい、理解したいと感じる時、そこには「自我/エゴ」がいます。そして「自我/エゴ」は物語を作るのが大好き。
そして物語を作るとき、その物語と自分を同化させてしまうということが起こります。
「あぁ、こういうことが私に起きたのは○○という理由で○○に原因があって、○○がこうだったから、ああだったから・・・etc」
といった具合に納得=同化してしまう。
これが困るんです!
その物語、問題と同化すればするほど、そのエネルギーを手放したり、解かしたり、緩めていくことが難しくなります。
なぜなら、あるレベルでは、そのことに執着していることになるからです。
執着しながら、手放す、なんて離れ業、誰にもできないですよね。
こと「癒しのプロセス」に関しては、「理解する欲求」を手放すことをお勧めします。
もちろん、時にはハイアーセルフが、点と点が繋がるようなものを、閃きやインスピレーションに近い形や夢などで教えてくれるときはあります。
だけどそれは、自然発生的に起こることであって、決して自分から探しに行って見つけてくるようなものではないように思います。
そしてそれは、あなたのハイアーセルフが、「そうすることが、あなたのためにベストだ」と判断してのこと。
そんな訳で、「癒し」に関しては、ハイアーセルフに委ね、そのプロセスを信頼して、一歩引いて観察することをお勧めします。
もし、何かが引き金になって感情が動くとき、「なぜ私はこれを感じている?」「何が原因?」と探しにいくのではなく、その感情をただ感じて流すことをお勧めします。
「ただ感じる」ってどういう事ですか? その感情にとらわれて日常生活が送れません・・・・と過去に何度か聞かれたことがあるので、これを読んでいる方でも同じような疑問をもたれたかもしれません。
参考になるかどうかわかりませんが、自分の場合だとどうしてるかというと、例えば怒りが湧いてきたら、「その怒りを感じる自分」と「怒っている自分をただ観察してる自分」の二人が自分の中にいる感じです。
ちょうど、深い井戸の入り口に「観察する自分」がいて、「感じている自分」はロープ(命綱)をつけて、その井戸の深い部分にまで、成り行きにまかせて深い所へと入っていくようなイメージです。
もう一人の自分が、井戸の入り口で命綱を持ってくれていますから、思う存分深い所まで行くことができます。
「観察している自分」は、「井戸に入っていった自分」を見ながら、
”うわぁ~、怒っとう怒っとう!!”
”あ、想像以上に怒ってるなあ~”
”そんなに、嫌やったんや~”
と、観察しています。
そして「井戸に入った自分」は怒りを感じ切ったら戻ってくる。
自分の力で戻れそうにない時は、もう一人の「観察している自分」が引っ張って助け出してくれます。
井戸の入り口にいる自分は日常生活を営む部分も担当していて、普段と変わらず、普通に仕事をし、普通に家族と会話し、普通に食事も作ります。
その間、「観察する自分」は日常生活も担当するし、もう一人の命がかかっていますから、「なぜ・・・?」なんてやってる余裕はないかも。
たぶん、「なぜ・・・?」てやると、二人とも井戸の中に入っちゃう感じじゃないのかな・・・・・
そりゃ、日常生活に支障でちゃいますね。
普通に会話できなかったり、誰かに「今、感じていること」を聞いてもらいたくなったりするのかも・・・・・
もしくは、「怒りを感じること」を曲げて解釈したり「怒っている自分」をなだめようとするのかもしれません。
日本人には多いですよね。
「こんなことで怒る自分は、なんて心が狭いんだ」とか、「こういう状況だから、しかたがないよ」とか・・・・
だけど、大切なことは「怒りを感じている」自分がいて、「それが事実である」ということ。
それこそが、スタート地点。
色々考えすぎて、自分が「怒っている」ことに全く気付いてない人も多いわけで、感情として出てこれない分、体の不調として出てきちゃっている・・・というパターンもよく見かけますし・・・・
自分の感情に気づき、感じて流していると、色々と自分で気づくこともあったり、そうでなくても、その感情を足掛かりにセッションをしていくことができます。
今のリラのセッションは、その感情の原因を探って、取り除くのではなく、その感情を変容させることが目的だからです。
そして、もう一度お伝えしてきます。
「理解」が必要な時には、ちゃんと自然な形であなたが分かるように仕組まれているのです。必要じゃないときは「わからないまま」で良いのです。
不調和な感情を変容させることで、その方の周波数が変わります。周波数が変わると、その人から見える現実は前とは異なるものになっています。
もちろん、「理解すること」を軽んじているわけではありません。
それはとても大切です。
だけど、「理解すること」に固執しすぎると、足取りは遅く、同じようなパターンを繰り返す人が多いな・・・・というのが、現時点での私の結論です。
P.S. 次の記事「脳は最高のコンピューター」も是非読んでくださいね。「理解する欲求」を上手に使う方法についてふれています。
※リラにとっての「癒し」とは、Healing=Wholeness 全体に戻ること、付着している余分なエネルギー的な障害物を取り除き、忘れていた自分を思い出していくプロセス、育む必要のある部分を有機的に育んであげるプロセスです。